矢彦神社と小野神社

塩尻市の小野神社と辰野町の矢彦神社が隣接して鎮座している小野地区。
その時代背景に興味深い史実が隠されています。
豊臣の裁許によって1郷であった村が、松本城主・石田数正と飯田城主・毛利秀頼との領有争いの結果、天正19(1529)年に筑摩群北小野村と伊那群小野村の2つに分けられれました。このため、元々「小野南北大明神」だった神社の境内に、2つの神社が祀られる県内でも他に見られない場所となりました。御柱も両神社で8本建てられます。
境内の多彩な樹木は人工林ではなく昔からの自然林で、はるか昔の植生を今に伝えています。昭和35(1960)年に「矢彦・小野神社社叢」として長野県の天然記念物に指定されました。
両神社を比較しながら古の物語を紐解きます。

矢彦神社

御由緒
社伝によると、矢彦神社は1400年ほど前に創建されたとされる信濃国二之宮であり、上伊那54か村の総鎮守といわれていました。
祭神は大己貴命、事代主命をはじめとする9柱です。中でも明治宮は明治天皇の在位中に祀られた「生祀明治宮(せいしめいじのみや)」で、全国的にみてもまれです。
現在でも矢彦神社は、塩尻市北小野地区の中にある辰野町の飛び地として、辰野町小野区の氏子の信仰を集めています。

御祭神
正殿:大己貴命、事代主命
副殿:建御名方命、八坂刀賣命
南殿:天香語山命、熟穂屋姫命
北殿:神倭磐余彦天皇、譽田別天皇
明治宮:明治天皇

矢彦神社について
大己貴命が、御子である事代主命・建御名方命を従えて国めぐりをしつつ、国造りをしていた時、しばらくの御在所を小野の里の彌比古澤(やひこざわ)の須賀の地に定められたのが始まりといわれています。
古くから天皇からの崇敬が厚く、欽明天皇の時代に、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀賣命を副殿にお祀りし、両殿を須賀の宮と称し、さらに、天香語山命と、塾穂屋姫命を南殿にお祀りし、矢彦神社としてのかたちが整ったといわれています。そして、例祭日を毎年八朔(はっさく-八月朔日)と定め、これを田の実(たのめ)祭と称し、現在まで続けられています。

※出典:矢彦神社オフィシャルホームページ

小野神社

御由緒
小野神社の創立年代は不明ですが、諏訪神の垂迹(すいじゃく)の地と伝えられ、建御名方命を主神として祀っています。中世以降、南側に境内を接する矢彦神社とあわせて、小野南北大明神と称せられ、信濃国の二の宮として崇敬を集めました。

御祭神
建御名方命 (たけみなかたのみこと)

小野神社について
現在の社殿は、寛文12年(1672)4月の類火により主要社殿が焼失した後、松本藩によって同年9月までに再建されたものです。本殿2棟と八幡宮本殿1棟、勅使殿1棟の4棟が指定されています。本殿2棟は、同規模・同形式で、御柱祭の年に祭神が一方から一方へ遷座されます。全体の形式は、中規模の白木造の一間社流造で、前面に縁と階段が設けられています。八幡宮本殿は、本殿よりやや小規模な白木造の一間社流造ですが、本殿よりも省略された様式が用いられています。勅使殿は、切妻造、白木造の四脚門(よつあしもん)の内部に床を張った、諏訪大社系の神社にみられる「御門屋(みかどや)」の形式です。
これら四棟は、松本藩の大工中村四郎右衛門によって建てられ、全体の形も細部の意匠も端正で、その時代の県内の神社建築の代表作の一つといえます。

※出典:塩尻市オフィシャルホームページ

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